『砂の器』をもう一度読む
昨日・一昨日は一日の大半を運転に使って、さらに日常必要なことと運転して出かけた目的に使い、最後に残った時間を『砂の器』(上・下)(新潮文庫版)の読書にあて読み切った。一気に読み終わるなんて久しぶりのことだと思う。そういうことから考えれば魅力的な本なんだろう。
40年以上前に読んだ本だけど「そうだ、こういう場面あったなあ」なんて思い出すところもあったが、ほとんど忘れていた。さらに、1974年に公開された映画の出来がよく、私はそちらのストーリーが『砂の器』だと記憶が書き換えられていたようだ。
復習するような記述があって、原作は新聞小説であることは分かるが、1960年から1961年にかけて「読売新聞」に連載され、61年光文社つまりカッパノベルスから刊行されたようだ。その後、新潮文庫に受け継がれ、すでに100刷ということだ。
新潮文庫の松本清張ものの中でも圧倒的な売れ行きで、すでに4364000部発行されているという。新聞・ノベルス・文庫を合わせると驚異的な数である。私のように古本で読んだ者や借りて読んだ者もいるはずだからその数は計り知れない。日本人の何分(一桁)の1かが読んでいると言っても過言ではない。映画の版権なども含めれば下世話な話だがこれ一冊で一生食っていける。
映画のヒットにより原作を読んだ人やハンセン病について考えている人たちが読んだりすることもあったのだろう。ただしハンセン病については昔はそれをどうとらえていたか、家族はどういう扱いを受けたかという点で参考になる程度である。なにしろ50年も前の小説だ。
読んでいてその頃の日活映画がチラチラしてならなかった。小説では「ヌーボー・グループ」という若い芸術家集団が出てきて「芸術論」を展開するが、日活映画でもそれに似たシーンがよくあった。そういう意味では極めて時代を反映していたと言えよう。私などその次の時代だが昔読んだときはそうではなかったが、今読むと強い違和感を感じてならない。すごく疲れるのである。
この「ヌーボー・グループ」というのがいけない。外国語は全くだめな私だから信頼出来ない話だが、「ヌーボー」はフランス語、「グループ」は英語である。芸術論を語り、あらゆる事象に敏感な人たちが自らをそんな安っぽい言葉で表すだろうか。何度も出てくるこの「ヌーボー・グループ」も気になって仕方がなかった。
この事件のキーワードは「東北弁」と「カメダ」である。さらに伊勢の映画館、被害者、殺人の動機などの謎が絡んでくる。これを本庁のベテラン刑事が所轄の若い刑事の協力の下、執拗に追いかけていく。この謎解きがおもしろい。その執念がすごいのである。このおもしろさが多くの読者を獲得した要因なのだろう。
ただ、あの松本清張にして、というところが目立つ作品でもある。犯人に関係していると思われる女性が二人、自殺・殺人という形で死ぬのだが、一人は刑事の極近くのアパ-トの住人、もう一人は刑事の妹の経営するアパートの住人なのである。しかも二人とも最初の事件後に引っ越してきたのである。これではご都合主義のそしりは免れまい。
まあ最近はテレビで年中殺人事件が起きている旅館とか行く先々で待っていたように事件が起きるとかそんなものばかりのドラマが多いことからすれば、許してもいいかな、なんてことも考えるが。
そして最後に延々と謎解きの解説を刑事がすることになる。ここら辺もあまりおもしろいとは言えない。一度映画を観てしまっているので、弱いところを補完して読み進めてしまっているような気もする。やはり犯人の人間描写が弱いなあ。
ということで、再読の記でした。
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