またまた同じような話で「年寄りの話はくどい」と言われかねないこはと自覚してはいるが・・・・・。
自分が言葉(日本語)について詳しいわけでわけではないことは分かっているし、まして言語学者、国語学者やそれに近い仕事をしていたわけでもない。だが話していたり、本を読んでいたりしてどうしてもイライラしてきてしまうことがある。
先日書いた「世界観」についてもそうだ。この言葉の最近の異常な使用には違和感を感じる。作者と作品があって、作品から直接知覚できることが出来るのは「世界」であり、その「世界」を創っている作者の「思想」が「世界観」である。私はそう区別しているのだが、直接関連しているので文の中でどちらを使おうとたいした問題ではないかもしれない。
他に「全然おいしいです」という使い方。これも気になる。テレビなどを観ていると最近はほとんどこういう使い方をしている。私が受けた教育では「否定」を前ぶれする副詞としての「全然」が強調されていたので、肯定的に使われると腰砕け状態に陥ってしまう。
それと最近よく目にするのが「役不足」。
この言葉は芝居をするにあたって、役者と役の関係を表したものらしい。役者の持っている格や能力に対して与えられた役がそれにふさわしくない軽い役、格の低いものである時のものだ。仕事として考えれば、能力のある人が誰にでも出来るような簡単な仕事をする時に使う。
だがこの「役不足」が全く逆の場面で現れて来るので脳みそが錯乱状態になってしまう。
最近読んだ写真関係の本でもそれがあった。三脚の使用法に関してだが、通常の使用法を解説した後で「その三脚で役不足の場面では・・・」というように続いて、より高度で特殊な場面での解説になっていくのである。人間とその仕事の場合は一応その内容というものをある程度理解しているので、「誤用」だなと分かった上で聞いているのだが、こういう道具の使用法などの場合、その格や能力、仕事の難易度が分からない(分からないから読んでいる)ので、非常に困った状態になってしまう。
「役不足」の対義語はおそらく「力不足」「力量不足」などであろうが、ぜひしっかり使い分けてほしいものである。
とは言っても、「使う」「遣う」の使い分けが私はよく分かっていない。ただし「役不足」と違って意味が逆転するわけではないので「まあいいか」と思っている。
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「役」といえば、森光子の『放浪記』が2000回の上演回数になったという。同じ芝居で同じ役を2000回は驚愕に値する。同じ仕事を長く続けるだけだったら世の中もっと長期間やっている人は山ほどいるだろうが、芸能の興行というものをそれだけ続けられたというのがすごい。歌を考えたって数年経てば「懐メロ」である。
それもすごいと思ったがそれ以上に驚くのが「89歳」という年齢である。75歳で「後期高齢者」扱い、自動車の運転ではワッペンを貼らなければならない時代である。それを一まわり以上も上回っているのである。還暦を過ぎてあちこちに体の不調をきたしている私からすればもう「超人」と言うしかない。
私は「商業演劇」派というより「新劇」派なので、帝国劇場とか明治座とかに自分の意志でいくことはないが、ここ何年もそれすら観に行っていないように思う。
その新劇にもすごい人がいる。『夕鶴』の山本安英である。最後まで澄んだ美しい日本語で表現していた。公演回数は1000回を超える。また宇野重吉が最晩年トラックの仮眠室で横になりながら地方公演を続けるNHKのドキュメンタリーを観てその演劇への執念にカブトを脱いだこともある。
新劇は地方公演が多く、サポートも弱い。その中で移動と公演を繰り返して行くのだから大変である。
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三木たかしが亡くなった。熱烈なファンではないが嫌いではない。心の奥底まで入り込んできて内側から揺さぶりをかけてくるメロディーを作ってきた。私もCDを何枚か持っている。
64歳か。1945年終戦の年生まれということになる。早い死である。
戦後の何もないときに産まれたり、赤ちゃん時代を送った人たちだ。私は2歳下。この世代より前の人たちは少年時代、青年時代をこの時迎えていて、たくましく生き残ってきた人たちだから精神的にも肉体的にもしぶといが、どうも私たちの世代は何かが欠けているような気がしてならない。この部分は私自身への自戒の文である。羨望でも蔑みでもない。最近アラカン(言葉をなるべく省略しないで遣おうと思っているが、この「アラカン」は気に入っている。鞍馬天狗のことではもちろんない)の死亡記事がえらく目立つのだ。気をつけよう。
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